高2の時に溺れた時の話


私が高2の時に溺れた時の事を書く。その日(日曜)私は市民プールに行った。 1週間後の水泳大会の潜水の練習をするためだ。クラスの為にではない。自分 を高める為だ。クラスの為に練習していたと一部では株が上がったようだが、 そんな事はない。私は 2年の時のクラスに忠誠心なぞない。

何度かの練習の後、調子づいてきた。多少息があがっていたが、次は 50m 行 ける自信があった。これで 50m 潜水すれば、中学3年の時以来の 50m となる。 25m までは難なく成功。35m か 40m 位、苦しいがそれで止めては潜水ではな い。そこら辺に人がいた。男の人だった。それを左に避ける。そこら辺までは 記憶がある。

プールから引き上げられる感じがする。黄色い服を着た人だった気がする。救 急車に乗せられる感じがする。息は「ぜーはーぜーはー」他に考える事はない。 いや、考える事が出来ない。息が苦しい。他は何もなかった。うるさいサイレ ンの音、右に左に方向転換する救急車。遂に止まり、がたがたと部屋に移され る。水色のタイル貼りのまぶしい部屋だった気がする。

幾つかの質問にもうろうとしながら応える。「ここはどこだか分かる?」「救 急病院…」中学の時に脳手術をした少年の話を読んでいたので、とっさにそう 答える。が、救急病院は日本にそんなになかったなぁとも。

住所・氏名・電話番号とかは答えたらしい。催眠状態で質問すると、色々答え ると言うから、それだろう。そのお蔭か、家族や学校への連絡はスムーズに行っ たようだ。

たいがいの質問には答えたが、複雑で、長い答が要求されるある質問は答えら れなかった。何度かその質問をされたが、「すみません、もうちょっと待って 下さい」と答えるのみだった。その質問は忘れた。途中で、「黄色い服を着た 人が…」と答えたら、「意識があったと言ってるじゃないか、『黄色い服を着 た人が』と言ってる」とか言う感じの叱咤を医者がしていた。

しばらくしたら病室に運ばれる。運ばれる横に母親がいた様な気がする。吐き そうだが吐けない。「横に吐いて良いからね」と言われ、私もなるべく吐きた かったが、吐けない。ベットに移され、それからようやく吐けた。大豆の形を している金属容器 1杯とちょっと分吐く。ほとんどが水。胃液のせいか、黄色 かった。

その夜は高熱を出して寝込む。夜中、尿意はあり、尿瓶もあるが、出ない。普 段慣れない体制、寝転がってでは出ない。危うく管を入れられそうになるが、 それは免れた。すんでの処で出たのだ。なんでもそれはとても痛いと言うので、 非常に好運だった。ちなみに、夏休み蓄膿の手術でも尿瓶を使わなければなら なかったが、2回目だと言うのにやはり苦労した。

次の日、まだ少し熱は有ったが、大分楽になった。この日か次の日くらいに検 査を色々する。そこでは CT とかをした筈だ。後に MRI もやる。何ヶ月か脳 波検査の為にセンターにも通った。このの日はパンツも何もなく、浴衣だけな のが少し恥ずかしかった。その時はせいぜい 2・3日程度の入院だろうと思っ ていた。


お見舞に来たのは担任の F井先生だけ。プロ研の皆はすぐ退院するからと聞か されていて、それでタイミングを失ったらしい。

ここで少し学校での話をしよう。次の日である月曜の体育の時間、授業の前に 潜水で溺れた奴がいるとの話があった。その時O崎は溺れたのが私だと直観し たらしい。すごい奴だ。しかし、私はそんな風に思われていたのか?そして O 崎はプロ研の顧問である F井先生に、なぜ一番に教えなかったのか詰め寄った そうだ。なんて良い奴なんだ O崎!

そして月曜日にはもう「2年 9室の室長が溺れたらしい」と学校中に知れ渡っ ていたらしい。どこから情報が流れたかは謎である。ちなみに水泳大会では、 潜水で 50m 泳いだ奴が続出。しかも私の学校のプールは当時 50m。出ても負 けてたね。なお、その中の一人は 50m 泳ぎ切った後、浮いてこなかったそう な…

さて、病院での話に戻そう。何故か退院できない。ピンピンしてるのに。患者 の中にはウェイトリフティングまでしてるのがいる。なんでもその医院は一度 入ったらなかなか出られない病院らしい。母がこのままでは単位が足りなくな ると、必死に嘆願してやっと退院出来た。結局 1週間も入院してた。お陰でル ナ・ヴァルガー全巻読めたけど。


Last modified: Fri Jan 5 17:26:06 2001
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